この社会では一般的に、自閉症のある人は障がい者であるとされています。
しかし以下の記事では、自閉症者が人類社会に不可欠な存在であることが主張されています。とても興味深い内容なので、少し紹介します。
まず、著者は社会に占める自閉症者の数が多いことを指摘します。
ではどうして自閉症スペクトラムの人間だけがこれほど多いのか?
もしもこの「障害」が本当に生きていくうえで障害となるのなら、その人が子孫を残す確率は小さくなり、ダーウィン流の淘汰が働くはずである。しかしそうはならなかった。
自閉症スペクトラムには他の多くの遺伝的障害のようには、淘汰圧がかからなかったのだ。つまり存在意義があったと考える方が、自然ということになってくる。
すなわち、自閉症者の数が多いということは、(社会において)何らかの存在意義がある証拠だと考えられるそうです。もし存在意義がなければ、数はもっと少ない(または淘汰される)からです。
ではその自閉症者の存在意義とは何でしょうか?著者は以下のように説明します。
自閉症者はそうでない人と認識世界が何がしか異なる、しかも後者が仲間とのこころの交流に重心をすえた行動をとるのに対し、前者は人間を取り巻く物理的環境に自らのこころを向けるという事実であった。
だが一般に言われているように、自閉症者は他人のこころがわからないとか、共感能力に欠けるというのは誤解であると私は考えている。むしろ自閉症者は「自然」に、そうでない人は「社会」にウエイトを置くという点で決定的に両者は異なるのだ。
すなわち、自閉症者は「人間を取り巻く物理的環境(自然)」に心を向け、一方、自閉症ではない人は、「社会(人との交流)」に心を向けるということです。
簡単に言うと、自閉症の人は「自然」が得意で、自閉症ではない人は「社会(人)」が得意ということだと思います。自閉症の人は人との交流が苦手だとよく言われますから、その傾向はあるのでしょう。
そして、この自閉症者の特徴が、社会で役に立ってきたのだそうです。
具体的には、「社会的周縁に存在し、自然界のなかで自分たちがどう生きていくかに思いをめぐらす」や「先史時代、われわれの祖先が狩猟採集に依存した生活をおくっていたころ、天候の変化をよんだり、動物の習性を知ったり、あるいは簡便な道具を作成したりするための「ナチュラリストとしての才覚」にたけていた」などを著者は指摘します。
そして著者は、ニューロダイバーシティという発想を提唱します。
人間の世界も遺伝的に異なる多様な存在がそれぞれ微妙に異なる脳神経システムを発達させることを介して、多様性を構成しているのである。
これがニューロダイバーシテイという発想である
すなわち、「脳神経の多様性」ですね。発達障害は脳神経の障害だと言われることも多いですが、ニューロダイバーシティの考え方だと、障害ではなく多様性の1つということになります。ちなみに健常者は「ニューロティピカル(定型脳)」と呼ばれるそうです。
そして、これまでの人類の歴史では定型脳の人が多数派であり、少数派の自閉症など、発達障害者を迫害してきたそうです。社会のルールは多数派が作ることになりますからね・・・。
また、自閉症者の人は聴覚や視覚に普通とは違う特徴(音の刺激に敏感だったり、特定の色を好んだり)があるそうです。これも興味深いです。
まとめ
以上をまとめると以下になります。
- 自閉症者は(人類社会で)存在意義がある
- 自閉症者は「物理的環境、自然」に心を向ける
- ニューロダイバーシティの発想だと、自閉症は障害ではなく多様性のひとつ
- 定型脳の人達(多数派)が自閉症者(少数派)を迫害してきた
この内容は非常に興味深いですね。自閉症を障がいととらえる考え方とは全く違います。
特に、現在は社会が成熟して、人との交流が得意なことがさらに重要なこととなっているような気します。コミュニケーション能力とよく言われますよね。
一方、自然の世界を予測したりといった、自閉症者の活躍できる場所が減っているような気もします。そのため、人との交流が苦手な自閉症の人の立場はますます弱くなっているような気もします。自閉症者の特徴を生かせる場がもっとあればよいのにと思います。
また、存在意義がなくても存在していていいという考え方も必要だと思います。